映画3月のライオン後編感想(ネタばれあり) 将棋を通して伝えたかった事とは

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自分は原作未読のアニメは観た人間。

前編は原作に忠実だったのに対して、後編はほぼ映画のオリジナルストーリー。原作はまだ未完結だが、原作者の羽海野チカが想定していた一つの展開だったそう。

後編の基本的な構成として

①後藤や宗谷との対局を中心とした獅子王戦の対決

②川本ひなたのいじめ問題

③川本家の娘達家族を捨てた「父親」が戻ってくるお話

大きくこの3つのパートで展開されていたと思う。

前編・後編含めて観た感想

色々書きたいことはあるが、この映画から感じたメッセージとして

「何かを得るには、相応のものを差し出す・犠牲にしなければいけない」

「力は使い方次第で、救いにもなるし自分も含めて人を傷つけることになる」

ちょっと説明

この映画では色々なプロ棋士が登場しているが、皆「プロ棋士」という力や地位、名誉などを得た代わりに、様々なものを犠牲にしている

幸田柾近 →自分の子どもよりも将棋の才能ある零に愛情を注ぎ過ぎてしまった為、家庭崩壊を招いてしまう

島田開 →慢性的な胃痛持ちで、常に体調が優れない。故郷の山形の支援者達に長年タイトルを獲れない事に対する「申し訳なさ」の気持ちをずっと抱えている

後藤政宗 →寝たきりの妻を看病し、劇中で死亡。その背景もあってか香子と不倫関係になっている

宗谷冬司 →この年齢で、コミュニケーションに支障が出る程の難聴がある。また親しい友人などはおらず孤独

桐山零 →中学生でプロになった事もあり、高校は1年遅れで行くことになり学校では友人もできない。本当の家族を早くに亡くし、家族愛に飢えている

別にプロ棋士になったら、皆こんな風になるわけではない。ただ、この作品では力を得たものは皆何かを犠牲にしている。

これは、誰にでも当てはまる事かなと思う。例えば難易度の非常に高い試験に合格しようと思えば、それまで以上に勉強をしなければいけない。

となると、それまで好きな趣味などに使っていた時間を「犠牲」にして勉強の時間を増やすことになる。何かを犠牲にしたからと言って欲しいものが絶対手に入るわけではない。しかし、本当に欲しいものは何の犠牲も払わず手に入るものではない。

例えば後藤だが、対局中に妻が危篤状態になり、その場を離れて病院に駆けつける。しかし妻は亡くなるが、再び対局に戻り勝利。

妻が死んだ事を「これで将棋に集中できる」と言い放つ。妻という「犠牲」を払ったが、結果として決勝戦で零に敗れ宗谷への挑戦権は得られなかった。

 

力の使い方について

零が川本家の元父親の誠二郎に対して厳しい言葉を浴びせ続ける場面がある。

「あなたは中古車ディーラーの会社を解雇され、社宅からも出される」

「自分はプロ棋士として、去年の年収は780万円ありました。そちらは?」

「あなたのような人間のクズに、ひなた達に近づいてほしくない」

零も川本家を守ろうとしての発言なのだが、どこで調べたのか相手の事を詳細に調べたうえで、相手が反撃できない論拠で攻撃。

この誠二郎はひなた達3姉妹と妻を捨てて浮気して家を出た。しかし今の妻が病気の為、その妻との間にできた子どもと病気の妻の看病を押し付け、さらにお金は零にせびる算段で今更近寄ってきたらしい。

確かに、罵倒されてもおかしくないような人間だが、川本家は「零君・・・、これでも私達のお父さんなんだよ」とあまりにも辛辣な言葉に傷つけてしまい一旦気まずい関係になってしまう。

17歳でこれだけの年収を稼ぐのは凄い事であり、それは桐山零が持つ「力」とも言える。

しかし、力は使い方を間違えると他人も自分も傷つける事になる。このシーンではそれを表している。

この映画で零は「17歳が普通に過ごす青春の時間」を犠牲に将棋の神のような存在の宗谷に挑めるほどの「力」を手にしている。プロ棋士としてその事実に苦しめられながらも、一方で川本家との温かい日常を送る絆を手に入れたきっかけもまた将棋だった。

映画を観て、原作が実際どんな内容なのか凄く観たくなった(*^-^*)

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